【Bloodborne考察】時計塔のマリアふたなり説
以下は二年前内輪向けに書いたテキストに若干の修正を加えたものである。原文に対し「注:」の形で随時コメントを挿入していく。
当然のことだが、ネタバレ注意。『Bloodborne』だけでなくソウルシリーズ全般に触れる。
あと、汚さに注意。ふたなりの時点でそうだが、没データや英語版の引用などガチ考察っぽい手付きを交えつつ、最終的には『ガバ穴ダディ―』に着地する。
落葉
時計塔の女狩人、マリアの狩武器
カインハーストの「千景」と同邦となる仕込み刀であるが
血の力ではなく、高い技量をこそ要求する名刀である
マリアもまた、「落葉」のそうした性質を好み
女王の傍系でありながら、血刃を厭ったという
だが彼女は、ある時、愛する「落葉」を捨てた
暗い井戸に、ただ心弱きが故に
根拠
①落葉が二刀に変形
→ふたなりの暗示
『ダクソ1』の白竜シース、半竜プリシラのように、ふたなり(半陰陽)というモチーフはソウルシリーズの世界を幾度も通過する。単なる上位者の所産、あるいは異常者の智慧としてかたづけることはできない。
注:シースがあるふたなりである根拠はいまいち思い出せない。彼(とフレーバーテキストでは書かれる)が元人間かつ元女性であるという考察をどこかで見た影響だろうか。
プリシラについても不明。「グウィンが絵画世界にプリシラを幽閉したことからは、彼が彼女の巨根に対し抱いた恐怖と憧憬、およびそれらに対する抑圧が読み取れる」とかそういう話をしていた気がする。
ちょっと真面目な話をすると、神話的な世界観設計をしているソウルシリーズは神話的なジェンダー観に浸されている。前近代的な男女の区分と未区分だ。
未区分というのは例えば、戦闘する女性の系譜であり(ゲーム主人公、『ダクソ2』のルカティエル、『Bloodborne』のマリア)、異性装であり(あからさまなのは『ダクソ1』のグウィンドリン、疑惑としては『SEKIRO』の九朗様)、人形の身体であり(『Bloodborne』の人形、『エルデンリング』のラニ)、性転換である(『ダクソ2』の隙間の洞)。
2021年時点では両性具有の実例がなかった。しかし2022年『エルデンリング』においてラダゴン=マリカという最重要例が発見された。もしかしたらジョージ・R・R・マーティンの発想かもしれないが、『エルデンリング』以前のソウルシリーズに両性具有的な表象を探す試みも無駄にはなるまい。
②第三段階で血と火両方を纏う
→ふたなりの暗示
血=女性性:不死の女王の血族。既に持っていたもの。
火=男性性:『ダクソ』シリーズのとある考察によると、火継ぎは女性でも行えるが総じて男性的な行為らしい。火防女と性別が対になるよう設定されている
注:前述の神話的ジェンダー観の一例。
ただし、『ダクソ1』の混沌の魔女や『ダクソ3』のフリーデなど、火の中でもヴァリエーションがあると思った方がよい。マリアの場合は「血=人狩り、火=獣狩り」が蓋然的な読みであって、ここに男女二元論を当てはめるのは難しい気がする。
③「血刀を厭った」わりに第二段階以降ぶんぶん振ってる
→本当に厭ったものは自らの血ではなく男性器だったから
血と火を纏った落葉はまた勃起した男性器の暗喩(注:いわゆるファリック・シンボル)であり、自己を女性として定義するマリアがこれを厭い最終手段として秘すのは当然のこと。
④愛する落葉を捨てた
→ 去勢の暗喩
だが彼女は、ある時、愛する「落葉」を捨てた
暗い井戸に、ただ心弱きが故に
このテキストは狩人を辞めたこと、あるいは自ら命を絶ったことの比喩として読まれることが多い。しかしふたなり説に従えば、より真実に近づくことができる。
そもそも狩人をきっぱり辞めていたなら狩人の悪夢に囚われることなどないだろう。従来「一度継承した狩人の業(ごう)は二度と消えることが無い」と読み解かれていたが、そもそも彼女は狩人など辞めていないのではないか。「ただ心弱きが故に」というテキストは反語表現に思える。
狩人の悪夢に囚われ再びその手に戻ってきたものとは、落葉でも、狩人の業でもなく、とある個人的な恥。
シモンの科白
「秘密には、常に隠す者がいる
…それが恥なら、尚更というものさ」
「愛する」もまた、皮肉に過ぎない。
⑤「マリア」という名
由緒正しいドイツ語の女性名である。英語版では「Lady Maria of the Astral Clocktower」と明記されている。
だからこそ、嫌疑は深まっていく。
『Bloodborne』の外にヒントを求めよう。『SEKIRO』の九朗様は男性名だが、当時の風習からして女性が男性として育てられている可能性は否定できない。特別な血(竜胤)をひき主人公狼の不死性の根源となる点は、『ダクソ』の火防女や『Bloodborne』における「fair maiden(美しい娘/上位者の赤子を孕む女性たち)」を想起させる*1。
クリエイターの手癖でメタ読みするなら、変更できない主人公(狼)の性別と対になるように女性だと設定していてもおかしくない。名前はフロムソフトウェアのミスリーディングだったわけである。
あるいはふたなりであるという可能性までも。
マリアは女性から、九朗様は男性から両性にアプローチして造形されたキャラクターではないか?
⑥装備
どちらかといえば男性的な服装。乳母イメージを持った人形(さらにはメルゴーの乳母)と対照的。
あるいは以下に書いたことを踏まえると、九朗様と同様に男らしい恰好を強要された可能性がある。
ゲールマンと月の魔物
ここまでの議論でマリアがふたなりであることが十分に説得された(注:という体で話を進める)。ここからは「時計塔のマリアふたなり説」をもとにゲームのストーリーを語り直す。この作業を通じて説を補強しつつ、より発展させよう。
マリアを語るにあたって、ゲールマン、狩人の夢、月の魔物との関係は外せない。そもそも彼女は狩人の夢にいる人形の似姿としてDLCに登場したのだった。時系列的には、彼女を元に人形が作られたのだが。
月の魔物マリアの赤子説
本論に入る前に準備を一つ行う。『Bloodborne』のファンコミュニティーの間でまことしやかに囁かれる噂を紹介したい。「月の魔物はマリアの赤子ではないか?」
この説は蓋然的とは言えないが、状況証拠が多く、ゲーム側が推論を誘導しているようにすら見える。手短に根拠を並べよう。
A. 古工房と狩人の夢の類似。
B. マリアと人形の類似。
C. 捨てられた古工房に「3本目のへその緒」が落ちているが、へその緒は上位者の赤子が死んだときにドロップする遺物である(ただし現実で死んでも夢で死ぬとは限らない。メンシスの悪夢に囚われたミコラーシュなど)。
D. 悪夢を形成する能力が上位者の赤子(のみ)にあるような描写。狩人の夢の主である月の魔物も、かつては赤子だったはずだ。
3本目のへその緒(捨てられた古工房)
全ての上位者は赤子を失い、そして求めている
故にこれは青ざめた月との邂逅をもたらし
それが狩人と、狩人の夢のはじまりとなったのだ
英語版
The Third Umbilical Cord precipitated the encounter with the pale moon,
which beckoned the hunters and conceived the hunter's dream.
上位者は自身の赤子を失い、その代理を求めている
青ざめた月は狩人を招き、狩人の夢を想像した/妊娠した
※conceiveは一義的には想像するという意味だが、conceive the childで「妊娠する」という意味のイディオムになる。
E. 上位者の赤子を孕む条件は「特別な血を引く」「啓蒙の高い」「女性」であり、ゲールマン周辺ではマリアぐらいしかいなかっただろうと推測できる。
F. 没データに含まれる「フローラ」という人物に関するテキスト。夢の月のフローラ=月の魔物=マリアの子供?
人形の科白
「夢の月のフローラ
小さな彼ら、そして古い意志の漂い
どうか狩人様を守り、癒してください
あの人を囚えるこの夢が
優しい目覚めの先ぶれとなり
…また、懐かしい思いとなりますように」
月の魔物ゲールマンの赤子説
「月の魔物マリアの赤子説」を「マリアふたなり説」という新機軸から視ることで、今まで見えなかったものがすでに視界に入っていたことに気づかされる。これこそが啓蒙の本質だ。
ゲールマンと月の魔物、その親子関係
主人公が行ってきた狩――獣狩りとして始まり上位者狩りとして終わる――とは一体何だったのか?
それは結局、月の魔物によって「差し込まれた」一夜だったのである。ゲーム本編ではメンシス学派の手により赤い月が登った。月の魔物は異変を見るやいなや、その大元に居る上位者の血を回収するため、たった一人の狩人=主人公を遣わしたのだ。
自筆の走り書き
「青ざめた血」を求めよ。狩りを全うするために
物語冒頭で目にするこのヤバすぎる走り書きは、主人公が最初から「狩り」という目的をもってヤーナムに来た痕跡と見てもよい。
だが、「血の医療を受け眠っている間に月の魔物に書かされたもの」とみなす方がより自然ではないか。狩りを続け、最終的に青ざめた血=上位者の血を回収しろというメッセージだと。
メタ的には、月の魔物に書かされたとした方が主人公の来歴に対する束縛が減り、プレイヤーが設定する余地が増えるので、フロム好みに思える。
獣狩りの一夜におけるゲールマンの役割は、冒険の途上で新米狩人に助言を与え導くこと、狩りの終わりに狩人を解放すること、狩人から得た血の遺志を月の魔物に受け渡すことの三つである。ここでゲールマンと月の魔物の関係性に注目したい。
3本目のへその緒(捨てられた古工房)(英語版)
上位者は自身の赤子を失い、その代理を求めている
青ざめた月は狩人を招き、狩人の夢を想像した/妊娠した
まずゲールマンを子、月の魔物を母とする読みを試みよう。
3本の3本目を使わずゲールマンを倒すエンディングで見られるように、ゲールマンの役目は主人公でも代替可能である。青ざめた月=月の魔物は「妊娠した」、つまり狩人の夢は子宮、ゲールマンないし主人公は月の魔物の赤子であって、通常の胎生生物とは逆に母親が胎児を搾取する図式が見て取れる。また「その代理を求めている」とあるように、利用できれば赤子は代理でもよいのだ。
月の魔物もゲールマンも通常の人間なら寿命に近い年齢だ。彼はたびたび疲労や希死念慮を表明しており、老々介護の悲哀を感じさせる。
同等の図式はメルゴーの乳母とメルゴーの間にも認められる。メルゴーの実母は女王ヤーナムで父親はおそらく姿なきオドンだが、メルゴーの乳母は血縁に関係なく赤子を抱いている。赤子とはそれだけで何かしらの利があるのだろう。
赤子による赤子の妊娠、ないし代理の母子というモチーフは、『SEKIRO』の「竜の帰郷」エンドでよりあからさまに展開されている。
もう一つ、当然の読みとして、ゲールマンを父親とみなす方法がある。ゲールマンの姿は子育てを父親のみが担う自然界の動物、例えばウシガエルやクマノミとそっくりだ。
なお不思議なことに、乳母たる人形は(月の魔物を子と見るときの)子育てに参加していない。あるいは、血の遺志のキャリアである狩人をレベルアップさせること。あれは贄を豚のように太らせるためだったのか。
なるほど、上の二つは妥当な読みだろう。だが『Bloodborne』というゲームにおいて、親子の関係はほとんどそのまま母子の関係に置き換えられる。
ゴースとゴースの遺児、女王ヤーナムとメルゴー、アリアンナとその子、偽フカとその子。父親が上位者という理外の存在であることが多いのも原因の一つだが、そもそも哺乳類の胎生は母親のみに子が自分の子であることの確信を許す。
ゲールマンと月の魔物の親子関係は母子とみなすことはできないのか?
もしこれが可能なら、母子と言う重要なモチーフに対する我々の読みは格段に進化するはずだ。いやしかし、父親が母親の役割も兼ねるというならまだしも、この文脈で母子とは生物学的出産を意味している。性別を異にするではないか。
この矛盾に直面して、我々はついに、マリアふたなり説と必然の邂逅を果たすことになる。復習すると、マリアは「特別な血を引く」「啓蒙の高い」「ふたなり」であった。
彼女の極めて特殊な精(おそらくトゥメル文明の時代にも存在しえなかった)こそ、男性が赤子を孕む条件なのである。
注:強引すぎる。
女性の上位者/男性の異常者
「男性は赤子を孕めない」という社会常識に平行して、『Bloodborne』世界では「人間の男性は上位者になれない」という法則が見受けられる。
ロマやエブリエタースなど、人間から上位者になったものはみな女性だ。
実験棟において脳液をくれる患者は3人いるが、どれも女性に見える。
アデラインの脳液イベントは3本の3本目イベントのアナロジーであり、「苗床」が女性にしかもたらされないなら、「脳に瞳」を得ることも本来女性しかできないのではないか。だからこそ、赤子エンドの主人公は例外中の例外であり、真なる進化といえよう。
ローレンスやゲールマンがビルゲンワースから離反した前医療教会の時代において、この経験則がどのぐらい知られていたかは分からない。
だが、実験により女性の方が神秘との相性が良いことが知られていたとして。ロマは上位者になれたが他の男性被検者が軒並み発狂したようなことがあったとして。
男であるというだけで上位者に至れぬなど、到底許せることではないだろう。
彼らは女性と神秘の関係を探究しはじめた。その延長戦上にゲールマンの懐妊はあったのだ。
落葉再び
落葉のテキストを思い出そう。
落葉
だが彼女は、ある時、愛する「落葉」を捨てた
暗い井戸に、ただ心弱きが故に
「暗い井戸」という単語は『ダクソ3』における重要アイテム「暗い穴」を思い起こさせる。しかし今回は取り上げたいのは、物語上の深い意味ではなく、単に形。
刀(マリアの男性器の暗喩)が井戸(穴の暗喩)に落とされる
そう、このアイテムテキストはマリアを男性側の主体とした性行の暗喩でもあったのだ。
ここにおいて女性側の主体はゲールマンでしかありえない(注:そうかなあ?)。
ゲールマンという名前は、ドイツの古英雄「Hermann」がロシア語訛りしたものである。由来はともかく一見して男性名と分かるこの名は、しかしマリアの名がそうであったように、ある種のミスリーディングとして最初から仕組まれていたのではないか?
好奇の狂熱
マリアの狩帽子/狩装束/狩手袋/狩ズボン
ゲールマンに師事した最初の狩人たち
その1人、女狩人マリアの(狩帽子/狩装束/狩手袋/狩ズボン)
カインハーストの意匠が見てとれる
不死の女王、その傍系にあたる彼女は
だがゲールマンを慕った。好奇の狂熱も知らぬままに
but had great admiration for Gehrman, unaware of his curious mania
(英語版では好奇の狂熱を持つ主体がゲールマンであることに注意)
打ち捨てられた人形用の帽子/服/手袋/スカート
着せ替え用のスペアであるようだ
ごく丁寧に作られ、手入れされていたであろうそれは
かつての持ち主の、人形への愛情を感じさせるものである
それは偏執に似て、故にこれは、わずかに温かい
It borderlines on mania, and exudes a slight warmth
マリアの科白
「死体漁りとは、感心しないな
だが、分かるよ。秘密は甘いものだ
だからこそ、恐ろしい死が必要なのさ
…愚かな好奇を、忘れるようなね
Liberate you from your wild curiosity」
ゲールマンの好奇の狂熱とは何だろう。これはふつう、漁村での殺戮を引き起こす原因となった探究心のことだと解釈される。
しかし実際は、ゲールマンの肛門性行に対する執着である。
冒涜的実験の名のもとに、尊敬する師のため自身の女性というアイデンティティーを曲げてまで精を提供したマリア。しかし、ゲールマンはおよそ啓蒙が高いとはいえない不明瞭な呻き/喘ぎを発しながら身体的快楽にひたるばかりで……。
彼女の絶望はいかばかりだったろう。落葉を捨て、狩人としての自分を捨て、男性器を切り捨て、命を捨ててもまだ、忘れがたいのではないか。
恐ろしい死によって覆い隠したくなるのも当然である。
ゲールマン、ローレンス、マリア
いちいち引用はしないが、ゲールマンの未使用テキストにはローレンスの名を呼ぶものがやたらと多い。こいつローレンス待ちすぎじゃないか?
またエリア教室棟(元ビルゲンワース、物語時間ではメンシスの悪夢と接続)には次のようなテキストがある。
教室棟
ローレンスたちの月の魔物。「青ざめた血」
あの冒涜的性行為にはローレンスも携わっていたのだ。あまつさえ実験の主体だとメモの書き手には思われていた。
ローレンスとゲールマンはマリアという女性(男性器付き)を媒介した実質的なゲイカップルだったのではないか?
また、この3人をして『ガバ穴ダディ―』のアナロジーであると洞察した鋭い読者の方もおられるかもしれない。対応する配役はそれぞれ「ゲールマン:ガバ穴ダディ―」、「ローレンス:島田部長」、「マリア:コブラ三木谷」である。
ゲールマン緩次郎説
このアナロジーは当説の本質を想像以上に突いている。最初に誰が居て誰があとから来たか。誰が誰の胎内に精を注いだのか。本来2人で完結するものがなぜ3人目を必要としたのか。
それは結局、ガバ穴ダディ―の深みでもある。
誤読の上に誤読を積み重ね、更に誤読のペーストを塗り広げることになり申し訳ないが、「ガバ穴ダディ―ノンケ説」を援用しても面白い。
普段は真面目でやさしい最初の狩人(人間性)。冒涜的実験など考えられない。しかしいったん脳みそをくすぐられると、好奇の狂熱で脳に瞳をおねだりする真理の探究者(獣性)に大変身!
宮崎社長のインタビュー
このゲームのテーマの一つに獣型の敵に起こる「内的衝突」がありました。
獣化への衝動は、私たちみんなが持っている、いわゆる人間性とせめぎ合っています。
人間性はある種のカセとして働き、獣化を抑制しています。
その枷によって獣化への衝動が強く抑えられていれば抑えられているほど
その枷がいざ外れた際に、その反動は大きくなるのです。
彼は結局、探究者に徹することができなかった。ある意味では人間性の方が打ち勝ったのだ。好奇の狂熱も、ローレンスからの唆しで生まれた一時の勘違いにすぎなかった。
狩人の業とはむしろ、ゲールマンを唆したローレンスにあるのはないか、と言ってみる。実行犯と示唆犯、どちらの罪が重いのだろう。
弔いの人形
さて、上位者の赤子を孕んでもゲールマンは上位者になれなかった。実験は失敗した。
どういう形であれマリアは彼らの元を去り、しかし狩人の業(これもゲールマンらが始めたものだ!)によって狩人の悪夢に囚われる。
ゲールマンの業は常軌を逸している。故に狩人の悪夢と狩人の夢の両方に囚われるのは当然の報いだ。
しかしどこかの時点で目が覚めたのだろう。気づくこと、真実こそが罰のかなめなのかもしれない。罪の意識と共に、母親として月の魔物を育てることになる。
狩人の夢を訪れた異邦の狩人に対してゲールマンは、獣にならず血にも酔わない「弔い」の狩りを継承させた。その企てはどちらかといえば失敗しているのかもしれないが、ともすればこれが本来ゲールマンが父親として果たすはずだった像に見える。
人形はほとんど乳母としての役目を果たしていないにも関わらず、女性的な恰好をしている。
ゲールマンがマリアにできる最上の弔いは、ただ似姿の外形を故人がかつて望んだようにすることだったのか?
……しかして、打ち捨てられた人形の衣装には、人の淀みにも似た偏執maniaが未だに生温かくまとわりついている。
かつての持ち主の、人形への愛情を感じさせるものである
それは偏執に似て、故にこれは、わずかに温かい
It borderlines on mania, and exudes a slight warmth
結
予想外に論が膨らんだ。特に後半、マリアの掘り下げというよりもゲールマンの掘り下げになったのは驚きである。冗長性と引き換えにわずかばかりでも説得的になっていることを願う。
『ガバ穴ダディー』とのアナロジーは無理やり持ってきたのではなく自然に出てきた(出会うべくして出会った)ので、気づいたとき声が出た。
反省点。読み返すとゲールマンが実際に子供を産んだ方法がよく分からない。上位者の精もどこかで注入しないと上位者の赤子は生まれないだろうし、そもそも男に子宮をどうやって調達したのか。メンシス学派が脳に瞳を物理的に移植したように、外科的に子宮を得たのか。あるいは現実より神秘の濃い悪夢に移動し、もっと神秘的/形而上学的なアプローチで出産したのか。
このよく分からなさ、入力と出力だけ判明していて過程が一切不明というタイプの謎は『Bloodborne』というゲームによくある。諦めも必要なのだろう。無理に細部を詰めても蓋然性がなくなる。この説に蓋然的な部分が少しでもあったか?
こんなガバガバな読みでも通用するようにしてしまったフロムソフトウェア、並びに拙稿の基礎となり誠実にゲームと向き合っている各種考察サイトに感謝を。
最後に、某動画サイトの某動画で「ふたなりなんでしょ」とコメントした、故も知らぬあなた。あなたのほとんど皆に忘れられた小さな気付きこそ、我々を遠くここまで導いたのだ。
参考文献
Bloodborne設定考察 Wiki
英語版含めたゲーム内テキストが一通りまとまっている
Acid Bakery - ラバー・ソウル - lover of souls -
http://acid-bakery.com/text/archive/love_souls/
単純に文章が上手い。フロムゲーの良い考察とは蓋然的な読みではなく面白い読み(二次創作)である。
ソウルの種
https://souls-seed.blogspot.com/p/bloodborne.html
資料の膨大さが凄まじい。
【フロムゲー考察①】上位者はなぜ赤子を欲するのか
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=15056305
赤子に関して生物学的知見からアプローチする。
SF史に残る(べき)ゲームたち:第15回『Bloodborne』――死にゲーの思想的意義
https://jp.ign.com/sf-game-history/28798/opinion/sf15bloodborne
唯一の評論っぽい評論
追記1:夢の月のフローラについて
字幕すらない没音声にフローラの形跡があった。
ゲールマンの科白
「ローレンス…こちらも、もう終わる
夢はすべて燃え尽き、フローラが月から戻ってくる
だから、なあ、最後の約束を果たそうじゃないか
狩人はもういらない
俺と、お前が殺し合い、生き残った方が彼女に食われる
それが、三人で決めた結末だったろう?
なあ、そうだろう?ローレンス…」
この段階(マリア設定以前?)だとフローラなる人物は、ゲールマンとローレンスの同期として設定されていたようだ。そして月の魔物、またはその母親と化した。
追記2:人形ふたなり説
マリアふたなり説を徹底すると、人形にまとわりつく「偏執」からして人形もふたなりである可能性がかなり高い。人形ふたなり説。
ゲールマンの科白
「残っているものは、すべて自由に使うとよい
…君さえよければ、あの人形もね…」
人形の性的玩具としての側面を暗示するテキストだが、主人公の性別を問わずゲールマンは同じセリフを吐く。
過去に狩人の夢に囚われた狩人は、男女どちらもそれなりの数居たことだろう。実際作中でもそのようなNPCが二人登場する。古狩人デュラと狩人狩りのアイリーンだ。彼らはそれぞれ男性と女性である。
つまり(実際に使われるかはともかくとして)人形は男女を問わず性的玩具としての使用が期されたふたなりでなければならない。
月の魔物がもっと赤子だった頃、人形は造られた身体ながら乳母として乳を与えていたかもしれない。ゆえに乳母の恰好をしているのだと。
しかしこれは人形ふたなり説を退けるものではない。上半身が女性であれば乳母の役割を果たせるからだ。
AI放送作家拓也「パラオナボーイ」コード進行
自分用に採譜。chordwikiにこういう淫猥な歌詞の曲を掲載できるか不明(たぶん駄目)なのでブログで公開。
{key:C}
[C]オチンポ・パラダイス パラダイス・[F]ラブ・ユー・ベイビー
[Am]オチンポ・パラダイス [G]パラダイス・[F]ラブ・ユー・ベイビー
[Am]パラダイス・[G]オナニー・ボーイ([F]略してパラオナボーイ)
{key:B}
[B]泊まりのウリで [F#/A#]マジ狂いの[G#m]天国さ
[F#]ホテル代も [E]バカにならない[D#m]けどね
[C#m]小遣い稼ぎ[F#]なら [B]これが一番!
[E]俺のケツマン[B]パラダイス
注意:
前半パートの[G]は本当はギターからcとeが聞こえている。そしてbの音が聞こえない。より正確に採譜するなら[Cadd9/G]のようになるだろうか?
ここではメロディ・作曲者の意図(AIの意図とはつまりクリシェや定型進行であろう)・実際の演奏感をふまえて[G]とした。CREEVO(この曲を生成したAI)の仕組みを知らないがちょっとアレンジミス感がある。
感想:
Orpheus「ウルトラマン」と比べれば技術の長足の進歩を感じる。機械学習が進歩して云々、というよりはまず出音の良さだ。音質がよく合成音声がより自然。
ドラムとベースがしっかりさっぱりして聴きやすいのはポップスに向いた作編曲ツールだと思われる。
譜割は中々狂ってる。が、そもそもの(AIのべりすとが書いた)詞がメロディに乗せることを全く考慮していないので頑張った方ではないか。*1
メロディラインはメジャーペンタトニックに従っており譜割に反して手堅い。
コード進行に関して。AIもカノン進行([B]以降)を愛用する。また、[C]→[F]や[B]→[E]→[B]などサブドミナントに進行するあたりがポップスらしく聞こえる。
この曲の白眉は前半から後半にかけて[F]→[B]で接続する部分だろう。曲の展開に対して調を半音下げるという選択が意外で良いし、メジャーコードの増四度進行は定型とは言えないが普通に気持ち良い("エモい")。バッキングがギターからピアノに変わるというアレンジの変化もここではうまくハマっている。全体的にまともな曲でもパクリたくなる良いアイディアだ。
「一つの調内でのコード進行は定型で十分であり、複数の調を張り合わせ方にこそ創意工夫がある」というのはJ-Pop的な作曲の価値観の一つである。そのラインに従いつつこの曲はAIの可能性を示して見せた。
ガバ穴ダディー論考①:《ガバ穴のないダディ―》
1.
「四角い顔の男の中の男」とも評された彼は、性的魅力を抜きにして好感が持てる。だからこそこの殉教の旅の主人公たりえたのだ。
「月刊サムソン ビデオレビュー 「ガバ穴ダディー」 書き起こし」
http://blog.livedoor.jp/bloodyrosepoke-dedetomo.com/archives/34782791.html
2.
一見して判るように、このビデオのテーマは「ゲイの享楽主義」ではなく「生命の受難」にある。作中のダディーは快楽を越えて苦痛を味わっている(ように見える)。彼の発する怪音は悲鳴にも似たおぞましさを帯びた何かだ。
また常に「不本意な」状況に晒されていることも観察できる。これはコメディリリーフとして働くと同時に、不安の時代を生きる私たち視聴者の共感を誘う。彼はついぞ「太いシーチキン」に見えることは無かった。
諸氏が指摘するように、コブラ三木谷が呼ばれたのはおそらく島田部長のタチとしての不能(インポテンツ)が原因で、コブラが来てから状況は更に混沌とする。
「コブラ三木谷の呼吸音はなぜうるさいのかを考察してみた」
https://kumohai6794re.hatenablog.com/entry/2020/10/23/235726
ここにこの作品の人間観察の凄みが現れていると思う。ゲイの「楽園」=「ぷもも園」(?)など端から無いのだという絶望が、快楽と身体(の不在)、そして他者の出現を通じて描かれている。ダディーの「ぷももえんぐえげぎおんもえちょっちょっちょっさっ」という前言語的発話も示唆的であり、今なお不気味に響くところがある。
トリプルプレイが始まってから島田部長は小声で「うるせ……」と言っているが、しかしダディーの五月蠅さはある種の「告発」ではないのか。彼のおかれた状況の喜劇性と裏返しの悲劇性。4本の「腕」に抑圧された彼の身体。もはや「声」しか彼が持てるものは無かった。
果てには口さえも「男根」に塞がれてしまうのだが……。
3.
いわゆる「尻穴問答」について筆者が勝手に勘違いしていた点を訂正。
「お尻の穴」を「違うだろ」と否定されたダディ―は、実は島田部長の「おまんこ」催促を待つことなく「私のおまんこ」と発言していた。
いや、これも正確ではない。二人の発話はほぼ同時に行われている(被ってしまった)。僅かに島田の「おまんこ」が先行することになるが、ダディーの発話の滑らかさからして「私のおまんこ」は島田部長のそれを受けたものではない。無論、それ以降の「まんまん言葉の連発」は島田の意に沿う形で行われたのだろうが。
「ガバ穴ダディー・ノンケ説」
https://kumohai6794re.hatenablog.com/entry/2020/12/02/155058
「ガバ穴ダディーレビュー集2」
https://kumohai6794re.hatenablog.com/entry/2021/03/03/234228
ともかく、ダディーが「お尻の穴」第一の言い換えとして既に「おまんこ」という語彙を持っていたこと。初の「おまんこ」発話が二人でほぼ同時だったこと。これらの事実は(ある種の詩作品を鑑賞するように)「言葉」とその運動に着目して『ガバ穴ダディ―』を考えていく上で非常に重要になってくると思う。
あの言説空間において島田部長が真に指導的(指示厨的)役割を果たしていたのか。それとも二人は対等な協調関係にあり新しい言葉が次々引き出されていたのか。あるいは暴走するダディーに島田が押されていたのか。コブラが入った後に空間の磁場はどう変化したか(そもそも二人はいつコブラ参戦を聞かされたのだろう)。今後の研究で明らかにされることを期待したい。
misc.
・「太いシーチキン」は「太いチンチン」では決してありえない。彼があの極限状態で「シーチキン」と名指すしか無かったもの、それは普通「救済」と呼ばれるものなのかもしれない。この作品は単なるペシミズムに終止することなく、ダディーの生き様を通じて希望をも描いている。
・本稿では一貫してダディー(緩次郎)を《預言者》として扱っている。しかし性感帯が全身に分布した普段は真面目な教師しか神託を受け取る資格は無いのだろうか? この点において画期的だったのが「ガバ穴ダディ―ノンケ説」であり、言い換えればそれは現代における聖人の在り方=《ガバ穴のないダディー》なのかもしれない。
・島田部長が繰り返し言及する「よう滲みる」とはどういう意味なのだろうか? 一回でも真剣に肛門性行を営んだことがあれば容易にわかることなのだろうか。
・『ガバ穴ダディ―』の「音」について、技術的にマイキングの問題を取り上げてもよいと思う。どこで集音したらあのような音割れ/音圧が発生するのだろう? 筆者は特にビデオ終盤に聴く重機関銃のような音に興味があり、そのマジックの仕組みを知りたい。
「緩次郎セリフ集」
https://www.nicovideo.jp/watch/sm26184487